光賢年譜 |
光景年譜 |
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| 年号(西暦) | 年齢 | 記 事 | 年齢 | 記 事 |
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| 文政元(1818) | 0 | 小野村名主小澤小左衛門茂郷の第二子として生まれる。幼名寅次郎・兵助・兵右衛門。のち、同村小野家を嗣ぐ。 | ||
| 弘化2(1845) | 27 | 0 | 小野村小野光賢の長子として生まれる。幼名 彦太郎。 |
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| 嘉永5(1852) | 34 | 7 | 父の生家小沢団治に読書・習字を習う。 |
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| 安政5(1858) | 40 | 13 | 高遠町(現・伊那市高遠町)の親戚小林家の養子となる。高遠藩教官北原益太郎と柿本東吾に漢籍を学ぶ。 |
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| 安政6(1859) | 41 | 横浜に出る。見出されて横浜本町5丁目の町役人となる。 | 14 | |
| 文久元(1861) | 43 | 横浜本町5丁目の町名主となる。 | 16 | |
| 文久2(1862) | 44 | 17 | 養家の家例により商法実習のため高遠町呉服商池上勘蔵に仕える。 |
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| 元治元(1864) | 46 | 横浜坂下町の町名主を兼務。 | 19 | |
| 慶応元(1865) | 47 | 横浜太田町の町名主を兼務。 | 20 | |
| 慶応2(1866) | 48 | 21 | 国内の政治混乱、「男子時至れり」と養父母に断らず横浜に出奔。父光賢曰く「その志誠によし。ただし、養父母に許可を受けざるは悪し」と。光景は父の言に服し、いったん高遠町に帰郷、養父母に前非を謝し再度出浜。その後は横浜の父の公務を手伝う。 |
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| 慶応3(1867) | 49 | 長州征伐に際し功があり、苗字を名乗ることを許される。 | 22 | |
| 明治元(1868) | 50 | 新政府が従来の横浜町の町政組織を改編したため、公選によって町名主を決めることになる。選挙の結果、光賢が横浜町の名主に当選する。 | 23 | |
| 明治2(1869) | 51 | 横浜境町の町名主を兼務。 | 24 | |
| 明治3(1870) | 52 | 3月、横浜の窮民を救助したことを賞せられ、政府から金子を下付される。 4月に横浜羽衣町、9月に野毛町裏埋立地の名主に任命される。 10月に羽衣町の名主を免ぜられ、改めて本町5丁目および境町の名主となる。 この年、使部准席・苗字帯刀を許される。 この頃、激務のため病気がちとなる。 | 25 | |
| 明治4(1871) | 53 | 12月、横浜町の組織改編、総年寄が市長、名主が副市長となる。これに伴い光賢も副市長となる。 | 26 | |
| 明治5(1872) | 54 | 10月、病気のため退役願を神奈川県に提出。神奈川県令陸奥宗光が見舞いに訪れ再起を促す。同月、退役を許され、長子光景に職を譲り、郷里に帰る。この時、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟らが隠退を惜しみそれぞれ真跡を送ったと伝えられる。帰郷後、体調回復、風月を友に悠々自適の生活に入る。 | 27 | 父の跡を継いで「横浜港内第一区小一区戸長」となる。 |
| 明治6(1873) | 55 | 28 | 5月、彦太郎から光景と改名する。 この時期より神奈川県第一大区第一小区副戸長などを務め、同時に町政にあって歩合金取立掛総務などの要職を歴任。また、子供の教育にも尽力し、横浜市中に壮行学舎、如春学舎を開設。 |
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| 明治9(1876) | 58 | 31 | 壮行学舎、如春学舎を合併、横浜学校を開設。町政に多大の貢献をしたことを賞せられ、神奈川県権令より褒状を贈られる。 |
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| 明治11(1878) | 60 | 33 | 神奈川県第一大区区会議員となり議会の議長となる。 12月、横浜本町外十三か町戸長に公選される。横浜に商法夜学舎を設立。 |
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| 明治12(1879) | 61 | 34 | 横浜正金銀行設立に際し取締役支配人となる。 |
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| 明治13(1880) | 62 | 35 | 5月、横浜商法会議所を起こし副会頭に就任。 12月、横浜倉庫会社を発起し、社長に就任。横浜正金銀行副頭取就任。 |
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| 明治15(1882) | 64 | 37 | 横浜商法学校(現在の横浜市立商業高等学校)を創立。横浜正金銀行頭取に就任。 |
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| 明治16(1883) | 65 | 38 | 横浜の生糸売込商(生糸輸出商)の外村両平店が閉店。横浜正金銀行取締役堀越角次郎の要請により光景が外村の事業を引き継ぐことになる。この結果、6月、小野商店が開業。その後、小野商店は横浜の五大売込商のひとつとなり日本を代表する輸出商となっていく。 10月、横浜商法会議所会頭に就任。 |
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| 明治17(1884) | 66 | 39 | 神奈川県会議員・神奈川区会議員・横浜の町会議員に選出される。妹来栖あいの娘そのを養女に迎え、小野の生家を嗣がせる。 |
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| 明治19(1886) | 68 | 41 | 蚕糸売込業組合副頭取に就任する。 |
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| 明治22(1889) | 71 | 44 | 蚕糸売込業組合頭取に就任。横浜市制が施行され、光景が市会議員・市参事会会員に選出される。 11月、横浜本町外十三か町貿易商組合総理に選出。 |
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| 明治25(1892) | 74 | 47 | 貿易商組合総理を辞任。 |
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| 明治29(1896) | 78 | 第二子、序助光徳死去。 | 51 | 蚕糸貿易商組合頭取に就任。 |
| 明治30(1897) | 79 | 52 | 横浜商業会議所港湾調査委員となり、港湾の整備、税関施設の改善に尽力。横浜火災保険会社の設立を主唱し、同会社の取締役となる。 |
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| 明治33(1900) | 82 | 7月17日、光賢庵にて波乱の生涯を閉じる。墓は祭林寺にあり。別に横浜市鶴見区の総持寺に一碑あり。 | 55 | 小野村へ高等小学校敷地2,000坪と校舎270坪余および建設費を寄付。小野村へ備荒貯穀保存金、菩提寺祭林寺へ祠堂金を寄付。横浜市へ窮民救助基金を寄付。 |
| 明治35(1902) | 57 | 横浜鉄道会社創立発起人に就任。 |
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| 明治38(1905) | 60 | 横浜商業会議所会頭になる。小野駅敷地を提供。 |
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| 明治39(1906) | 61 | 臨時横浜港設備委員となり、横浜港の設備改良に尽力する。 |
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| 明治43(1910) | 65 | 神奈川県多額納税者議院に当選し、貴族院議院に勅任される。 |
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| 大正4(1915) | 70 | 従五位に叙せられる。 |
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| 大正5(1916) | 71 | 大正三、四年事件の功により勲四等瑞宝章を授与される。 |
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| 大正6(1917) | 72 | 横浜に小野貿易株式会社を設立。 小野商店を合名会社に変更。 小野村に小野病院を設立した。 |
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| 大正8(1919) | 74 | 小野病院の設立許可を政府から受ける。 5月、郷里の人々が小野公園頂上に寿像を建立し、功績を記念する。 9月、恩賜財団済生会へ5万円の寄付をした功により紺綬褒章第1号を授与される。 9月18日没。墓所は小野村祭林寺および横浜市鶴見区総持寺。 |
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小野光賢・光景記念館 冊子より「光賢年譜」、「光景年譜」に基づく